越後村上 酒の歴史

村上は、平安の昔から鮭が特産品として知られ、いまから250年前、江戸時代の村上藩士青砥武平が、世界で初めて鮭の回帰性を発見し、世界初の自然孵化による増殖が行われました。その方法とは、三面川を本流とするバイパスをつくり、産卵を促してふ化を助けるというもの。 鮭の回帰性を生かした、自然科学に基づく画期的な仕組みです。その後村上では、明治11年アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の鮭の人工孵化に成功。減少していた鮭の遡上数も、明治17年に73万7千尾を記録するまでに増えました。村上市は、世界初の自然孵化による増殖が行われ、日本で初めての人工孵化が行われた地。鮭が遡上する三面川の良質な伏流水に恵まれ、米作りも昔から盛んな地域でした。現在も良質な酒造好適米の産地として五百万石や高嶺錦を産出する米どころ。村上地域で生産されるコシヒカリは岩船産コシヒカリとしても有名です。

酒造りにも恵まれた風土を生かし、古くから酒造りの盛んな土地でした。井原西鶴が江戸時代の浮世草子として6巻6冊に渡り綴った「好色一代女」1686年(貞享3年)刊の2巻に、「村上のお大尽(だいじん)が、京都の島原で、廓(くるわ)遊びをしたときに、京都の酒はまずいからと、村上の酒を持ち込んで飲んだ」という話を入れています。大尽が好んで飲んだ酒は村上のどの酒蔵か不明ですが、村上藩の1657年(明暦2年)の記録によると、38の酒株(酒造免許に相当)を村上藩が発行し、年間酒造高は約11,090石と石高15万石の藩としては非常に多く酒が醸造されていたとのこと。(1812文政8年の記録によると全体の醸造量6,692石の内、地売り約4割・津出し約6割) 北前船による西廻り航路が確立(1672寛文12年)する以前より他県への酒の移出が奨励されており、各地で村上の酒は広く飲まれていたものと考えられます。

井原西鶴「好色一代女」
左絵:越後の大尽が店の者に金をばらまく様子
右絵:越後の大尽が島原(京)揚屋丸屋に大津馬の背に村上の四斗をのせ到着する図
(この挿絵は西鶴の筆によると言われている)
『好色一代女』巻二ノ二(財)東洋文庫より

また、慶応3年(1868)幕末に長岡の判木家又兵衛刀という人が(越后酒造家一覧・佐渡を除く)書いた和本の序文には、越後国の酒造業者が家業繁栄を京都の松尾神社へ祈願し、奉納するために作成された記載の中に、三島郡73人、魚沼郡74人、古志郡48人、刈羽郡72人、頸城郡239人、蒲原郡241人、岩船郡57人、合計804人もの酒造業者が記されています。

新潟県立歴史博物館所蔵(越后酒造家一覧)

この記載の数字からも、日本一の酒蔵数を誇る日本酒大国新潟は江戸時代から酒造りが盛んな地であったことが伺えます。

村上の地酒 〆張鶴・大洋盛
村上の地酒 〆張鶴・大洋盛

大洋酒造の歴史>

明治26年(1893年)村上の酒造家36軒で、岩船郡酒造組合が結成されました。その後、昭和18年より施行された企業整備令により20ほどあった酒蔵が2つに統合合併され、その一つが1945年に14の蔵が合併し、下越銘醸株式会社として発足。「越の魂(たま)」を発売しました。昭和25年(1950年)社名を一般公募し、社名を大洋酒造株式会社と酒名を「大洋盛」に改名しました。当時の蔵元には益田藤次郎、益田甚兵衛、益田甚次郎、中村岡右衛門、村山良之丈、平田喜一郎、吉川嘉右衛門(現在は千年鮭きっかわ)等の名があり、このうち最も古い蔵は村山家は、井原西鶴の「好色一代女」創刊よりも前の1635年(寛永12)年創業です。

大洋酒造 展示場 和水蔵(なごみぐら)

@Saketourism/sakewiz.com

宮尾酒造の歴史>

一方、「〆張鶴(しめはりつる)」の銘柄で親しまれる宮尾酒造は、昭和33年(1958年)に宮尾隆吉氏が独立し、宮尾酒造株式会社を設立。蔵の創業は1819年(文政2年)に遡ります。昨年創業200周年を迎えました。屋号は大関屋といい、銘柄は「〆張鶴(しめはりつる)」。酒名も由来は、神聖な酒にしめ縄を張るという意味からきています。

宮尾酒造
宮尾酒造
外観
宮尾酒造外観
宮尾酒造
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このように村上市の二つの酒蔵は、会社設立は、昭和の時代ですが、母体となった各酒蔵の歴史は大変古く、酒造りを続けてきた歴史と伝統を誇りとしています。